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HOME > 伯耆古城図録 ~日野郡篇~ > 中菅屋敷 > 同好会活動日誌

◆中菅屋敷

 

【 概 略 】

字名を「土居ノ内」と云い、伯耆国不動ヶ嶽城を任された武将の居館と推測される。

永禄年間(1564年頃)は毛利方の武将、三村修理亮家親が所在したと考えられる。

 

伯耆志では中菅村の条、城跡の件に以下の記述が見え中菅に居館が所在したことが伺える。

「原本此所中菅村屋敷跡に中菅村之園有り省略す」

 

陰徳太平記(巻第三十七)の「伯耆国日野之不動ヶ嵩夜討事」では尼子方の福山肥後守から夜襲を受けた香川左衛門尉光景如来堂から逃げ延び、

三村家親を頼った際に登場する館が当屋敷と考えられる。

 

三村家親が伯耆国法勝寺城へ移った後の詳細は不明。

 

現在は県道210号線とその側道により寸断されており、鳥取県中世城館分布調査報告書 第2集(伯耆編)でも詳細は不明とある。

現地の高低差から主郭を含め北西に向け3段以上の郭跡が連なる連郭式の居館とも見て取れる。

【 遠 景 】

右手奥が主郭

東側からの主郭遠望

主郭から北西一郭の眺め

【 縄張図 】

不動ヶ嶽城(字土居ノ内)略測図

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 概 要 】

名 称中菅屋敷(なかすげやしき)

別 名:土居ノ内(どいのうち)

所在地:鳥取県日野郡日野町中菅字土居ノ内

築城年:不明

廃城年:不明

築城主:不明

城 主:毛利氏…三村修理亮家親

文 献:陰徳太平記、伯耆志、日野郡史(昭和47年4月 日野郡自治協会)

形 態:居館後(平城)

遺 構:郭跡

現 状:原野、畑地、道路、宅地

種 類:史跡指定なし

登城難易度⇒★(楽)

【 地 図 】 日野郡内の城跡

【 年 表 】

年号 西暦 出来事
永禄7年

1564年

6月7日、尼子方の福山肥後守尼子義久から預かった500騎で毛利方の香川左衛門尉光景が布陣する如来堂へ向け進軍。

同日夜中~翌日未明、四郎太夫率いる一揆衆の蜂起と福山肥後守の夜襲により香川光景三村修理亮家親の館へと

逃げ遂せたとある。

【 写 真 】(訪問日:2016/04/02) 

北西一郭(手前)と主郭(奥)

主郭の様子

主郭から一段下がった北西一郭の郭跡

側道に分断される北西一郭の郭跡

畑地になった北西一郭の郭跡

北西一郭の畑地から北西二郭の様子

北西二郭(北側)も畑地に改変

北西二郭(北側)の西側切岸

側道による北西二郭の分断状況

側道による北西二郭の分断状況

北西二郭(南側)の西側切岸

県道210号線による分断状況

【同好会活動日誌】

如来堂に続いて不動ヶ嶽城の戦いとされる舞台の一つね。

 

陰徳太平記の記述を見る限り、如来堂から難を逃れた香川光景三村家親を頼った時に出てくる館跡と考えられているから、

当時は三村家親が居館としていたみたいね。

 

伯耆志原本の「屋敷跡の条」に記述があったらしいけど、復刻された本には記述が見えなかったわね…

道路でバラバラにされてるね…

 

えっと、他に情報は?

記述らしい記述は

 

陰徳太平記(巻第三十七)「伯耆国日野之不動ヶ嵩夜討事」

 

ココに載ってるだけね。

 

大永の五月崩れでも不動ヶ嶽城の名前が出るあたり、当時から歴代城主の居館として存在したとは考えられるけど…

あくまで推測の域は出ないわね。