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HOME > 伯耆古城図録 > 伯耆古城図録 ~東伯郡琴浦町篇~ > 旧東伯郡東伯町 > 槻下豪族館

◆ 槻下豪族館

【 概 略 】

槻下集落東方のなだらかな台地、大字槻下(小字大堀(おおぼれ)と小字上前田)に所在する。

台地上の東西に土塁を配した方形の郭を持ち、外周を堀で囲み防御力を高める構造は鎌倉時代頃の城館に多く見られる。

 

遺構の構造から鎌倉時代頃の城館跡と推定されるが詳細な伝承は不詳、城主に岩野弾正岩野弾正房岩野弾正坊とも)の名が見える。(伯耆民談記、槻下神社由来記)

 

伯耆民談記 巻ノ第十五 八橋郡古城之部 槻下城の条

「一、槻下 古布庄 岩野弾正居住」

「一、月下城 古布庄 岩野弾正坊居す」※後世の改訂版により色々変化している。

 

岩野弾正は当館から南西に位置する和伊智三社大明神(現在の槻下神社)を崇敬し社領数十石を認めていたようで、城内守護の産土神としても崇拝し武運長久を願ったとも伝えられる。(鳥取県神社誌 槻下神社など)

「垣ノ内」という字名が残っている場所が当館と槻下神社を繋ぐ中間に位置することから、槻下神社も当館の城域内に所在したと考えると広大な規模を誇った城郭であったことが推定される。

 

主郭と推定される西の方形郭は約40m×50m、四方に約2m程度の土塁(堀底からは約2.5m~3m)を築き、北西はやや切岸状で土塁の切れ目に虎口と土橋が配されている。

主郭北側の切岸下にはL字土塁を持つ腰郭、更に北側には土塁と空堀を配した遺構が見える(北側接続部は切岸状)ことからL字土塁を持つ腰郭が防衛戦では要の郭になると推測される。

 

主郭から空堀を挟んだ東側の方形郭は二ノ丸とされ、約30m×50mと長方形で北側~東側の北東側にのみ土塁が残る。

西側の主郭を守る意図があれば南側~東側の南東方面まで土塁を配したことが推定できるが現在土塁の痕跡は確認できない。

 

東西の方形郭は中央を空堀で隔てられ、外周に空堀を配して防御力を高めている。

堀の巾は約3m~4m程度、深さは約2m~3mとなり、土塁の高さと合わせると約5m~6mの比高となる。

堀は空堀とされているが東西の方形郭を分ける堀の北側は水が溜まり沼のようであったとしている。(東伯町誌)

この水の溜まった堀の部分から水堀とする説も見える。(鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編))

 

L字土塁を持つ腰郭より以北の山中には不明瞭ながら郭のような平坦地が見え、北東の2条の竪掘や空堀(或いは3条以上の畝状竪掘群)が残る場所には土壁で固められた井戸跡のような窪地が残ることから、縄張図以北の山中にも城砦に関係する施設が存在した可能性も推測される。

古い地名では北側の台地を「陣馬野」と呼び、馬術訓練が行われていたと伝える口伝がある。

また、「門田」の地名は当館の主人が最も大切にした手作りの田地とされる。

周辺には豊かな田圃が広がり、槻ノ郷(古布庄)の領主が経済力を背景に強固な地盤を維持していたことが伺える。

 

槻下の地名について「槻下」を「月ノ下」とする記述が残るが、この由来となる伝説が東伯町誌に見える。

 

昔、西行法師が諸国を巡遊し、この地を訪れた際に以下の詩を詠み村民を揶揄したとする。

「世界みな月の下にてあるものを この里ばかり月の下とは」

法師の詩に対し、機転を利かせた村民が以下の通り返している。

「この里は槻(いつき)の下と書くものを 照る月ばかりつきと思うか」

 

この後の西行法師とのやり取りは不明だが、相当気まずい雰囲気になったことは想像に難くなく、早々にこの地を離れたと思われる。「槻ノ下」は槻下神社の境内に神代以来の槻の大木があったことを由来としていることから、「月ノ下」は他所の者が音のみを聞いて書き記したものが残っていると考えられる。

 

現地は琴浦町指定史跡に定められているが民有地のようで、一部のパンフレットには見学の際は事前に教育委員会へ問い合わせて欲しいとしている。(民有地のため整備がなされていないようである)

【 遠 景 】

大高野官衙遺跡からの遠望

西側からの遠望

東側からの遠望

現地案内板

【 見どころ 】

槻下神社

当館の主、岩野弾正の信仰を受けた神社と伝わります。

城内守護の産土神が祭られていたとも伝わることから、当社も城域内に含まれそうです。

以下は鳥取県神社誌より槻下神社についての抜粋です。

「創立年は不詳。往古より和伊智三社大明神と称し、この郷の領主岩野弾正坊の信仰の社で社領数十石あった。慶長六年(1601)9月、中村伯耆守より社高五石を寄進され、寛永10年(1633)11月、藩主池田氏より五石八斗七升の寄進があった。明治元年に槻下社と改め村内末社天神(道眞公)を合祀、同6年に槻下神社と改称。最古の棟札は延宝7年(1679)のもので当時の由緒書も現存する」

琴浦町指定天然記念物 槻下神社社叢

槻下神社の鎮座する社叢は町指定天然記念物に指定されています。

神社をお参りするついでに散策してみるのも良いかもしれません。

ちなみに地名の由来となった槻(いつき)の木はどれかわかりません…。

指定日:昭和60年1月1日(鳥取県東伯郡東伯町として)

国指定特別史跡 斎尾廃寺跡

山陰唯一の国指定特別史跡です。「斎尾」は「さいのお」と読みます。

奈良前期(白鳳時代)の法隆寺式伽藍配置の寺院跡とされ、寺域は東西約160m、南北約250m、面積は約4万㎡に及ぶ大規模寺院跡です。(見渡す限りの芝畑ですが…)

山陰で唯一、国の特別史跡に指定された理由は出土遺物が優秀だった…らしいのですが素人にはよく解りません。

JR浦安駅近くの「まなびタウンとうはく」に寺院の再現模型や出土品の一部が展示されているようです。

指定日:昭和27年3月29日

【 概 要 】

名 称槻下豪族館(つきのしたごうぞくやかた・つきのしたごうぞくのたち)

別 名:槻下城・月ノ下城(つきのしたじょう)、槻下豪族居館(つきのしたごうぞくきょかん)

所在地:鳥取県東伯郡琴浦町槻下

築城年:不明(鎌倉時代頃が推定される)

廃城年:不明

築城主:不明(岩野弾正が推定される)

城 主岩野弾正

形 態:丘城

遺 構:郭跡(方形郭、帯郭、腰郭)、土塁、虎口、土橋、切岸、横堀、空堀、井戸跡、竪掘(畝状)

現 状:山林、竹林

種 類:琴浦町指定史跡(昭和49年5月1日指定)※東伯町指定史跡として登録

【参考文献】

・槻下神社由来記(安永年間 槻下神社神官池本家文書)

・伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)

・東伯町誌(昭和43年12月 東伯町誌編さん委員会)

・鳥取縣神社誌

・新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ(平成24年6月 鳥取県神社誌編纂委員会)

【城娘】

 

【 縄張図 】

槻下豪族館略測図

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

鎌倉時代

不明

槻ノ郷古布庄の地頭職、岩野弾正が居住と伝わる。(伯耆民談記、槻下神社由来記)

【 写 真 】(訪問日:2019/02/24)

南側の案内板と入口

主郭南側のヨ字土塁(南)

主郭南側のヨ字空堀(南)

主郭南側のヨ字空堀(南)

主郭南側のヨ字空堀(南の西側)

主郭南側のヨ字空堀(北)

主郭南側のヨ字空堀(北)

主郭南側のヨ字土塁(T字部)

主郭南側のヨ字土塁(T字部)

主郭南側のヨ字土塁(T字部)

主郭南側のヨ字土塁(中央)

ヨ字土塁(中央)と空堀(南)

主郭南側のヨ字土塁(中央西端)

主郭南側のヨ字土塁(南の西端)

主郭南側のヨ字土塁(南の西端)

主郭南側のヨ字土塁の礎石

南西の郭跡(不明瞭)

主郭土塁(南側)

主郭土塁(南側)

主郭土塁(南西の角)

主郭土塁(南側)から主郭

主郭土塁(西側)

主郭土塁(西側)

主郭土塁(西側)から主郭

主郭土塁(北側)

主郭土塁(北側)

主郭土塁(北側)の虎口

主郭土塁(北側)の虎口と切岸

主郭土塁(北側)の虎口と土橋

主郭土塁(北側)の虎口の土橋

主郭土塁(北側)の虎口の土橋

主郭(西側方形郭)の様子

主郭(西側方形郭)の様子

主郭から北側のL字土塁を持つ腰郭

主郭と腰郭を隔てる空堀

主郭北側のL字土塁を持つ腰郭

L字土塁

北西空堀の南端

北西空堀

北西空堀と土塁

北西空堀と土塁

北西空堀と土塁

北西空堀と土塁の北端

北西空堀と土塁の北端

北西空堀と土塁の北端

北西空堀と土塁の北端

北西空堀内

北部不明瞭帯の郭跡

北部不明瞭帯の堀跡

北部不明瞭帯の遠望

北部不明瞭帯に五輪さん

北部不明瞭帯に石塔

北部不明瞭帯の郭跡

北部不明瞭帯の郭跡

北部不明瞭帯の道跡

北東井戸跡への連郭跡

北東井戸跡への連郭跡

北東の井戸跡

北東の井戸跡

北東の井戸跡

北東の竪掘群

北東の竪掘群

北東の竪掘群

北東の帯郭

東側方形郭北東側の空堀内

東側方形郭北東側の空堀内

東側方形郭北側の空堀

東側方形郭北側の空堀

東西方形郭を分割する空堀

東西方形郭を分割する空堀

東側方形郭東側の空堀

東側方形郭東側の空堀

東側方形郭の土塁(北側)

東側方形郭(北側)

東側方形郭(中央)

東側方形郭の土塁(東側)

東側方形郭の土塁(東側南端)

東側方形郭の北端

槻下神社

槻下神社の鳥居

槻下神社の境内

槻下神社の境内

槻下神社の境内