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◆大龍山總泉寺

 

【 概 略 】

曹洞宗大本山總持寺九世如意庵賽峰良秀禅師を開山とする大本山 總持寺直末の寺。

 

伯耆国米子城から川堀を挟んだ南側に所在し、出雲国側からの侵攻に備えるための砦として設計されたことが伺える。

 

有事の際には多くの兵を配置できる広大な郭(現在の駐車場など)を有していたようで1603年(慶長8年)の米子城騒動では中村方からの救援要請に応じた出雲国富田城の城主、堀尾親子(※)の援軍が甲兵800余りを率いてこの地に布陣し、飯山砦(内膳丸とも)に籠もった横田方と戦ったと云われる。

(※伯耆民談記では堀尾信濃守忠氏堀尾山城守忠晴、伯耆三十三札所<鳥取県伯耆国>では堀尾吉晴親子としている)

堀尾吉晴は15日(午刻)に總泉寺に陣を敷いて待機したとあり、出雲街道を見張る重要な拠点であったとする。(伯耆三十三札所<鳥取県伯耆国>)

 

1607年(慶長12年)、中村一忠が母を供養するための伽藍塔を建立したことが始まりとする説が定説となっているが、中村一忠の母、曹渓院については異説が多数存在する。

 

現在、總泉寺の山門横に掲げられている案内板では寺名を母の戒名「曹渓院殿清心總泉大禅定尼」から總泉寺、山号を父、中村一氏の戒名「大龍院殿一源心公禅門」から大龍山と名付けられたとされる。

 

しかし、1933年(昭和8年)8月に当時のご住職であった木村大芳氏の書かれた「米子市大工町總泉寺縁起」には案内板とは違う縁起が書かれている。

木村氏の縁起では中村一忠の亡くなった夫人の供養のために伽藍塔を建立したとされ、曹渓院中村一忠の夫人としている。

「(略)慶長十二年、中村伯耆守一忠夫人逝去シ追福ノ為、現在ノ地ニ伽藍塔司ヲ建立シ其ノ夫人謚号「曹渓院殿清心總泉大禅尼」ヲ開基トシテ棟室和尚ヲ拝請シ青蓮寺ヲ改メ開基ノ謚号ニ因ミ大龍山總泉寺號シ寺領壱百石ヲ寄進シ夫人ノ冥福を修メシム」

 

伯耆志では大龍山宗仙寺(總泉寺)の条に以下の記述が見えるが、曹渓院中村一忠の母とすることには異説ありとしている。

「(中村)一忠の母曹渓院殿清心總泉大禅尼の菩提寺なるか故なりと云えり。(中村)一忠の母異説あり。城の伝を見合へし」

 

伯耆民談記でも中村一忠の母を清心総泉大姉とするが、伯耆志に異説ありと注釈が添えられている。

 

池田家系図では安養院中村一忠の母としており、曹渓院中村一忠の母ではないとしている。

「女、初め森武蔵守長可に嫁し、後中村式部小輔一氏に嫁し、一学一忠を生む。(中村)一氏は慶長五年に静岡で没、妻安養院春林宗茂大姉も慶長四年に静岡で没」

 

米子市史(全)では開壇を中村一忠としているが、総泉寺延命地蔵記には総泉寺の古位牌から当寺の開基は中村一忠の正室で松平因幡守康元娘(浄明院)としている。

 

曹渓院の人物像として諸説並べると以下のようになる。

1.池田家系図より、中村一忠の母は安養院であり曹渓院であるとは考えにくい。

2.総泉寺縁起に中村一忠夫人とすることから中村一忠側室に曹渓院があり、その菩提寺とした可能性も推測できるが側室の子を良く思わず中村家を断絶させた浄明院が開基とする説もあることから側室の菩提寺の建立を浄明院が認めるとは考え難い。

3.中村一氏の正室、安養院中村一忠が伯耆国入りする以前に静岡で亡くなっており、大龍山臨済寺に中村一氏と共に弔われている。但し、安養院の墓は近年の建立のようで当時から弔われていたかは不明である。静岡で母を弔えなかった中村一忠安養院のために開基したとも考えられるが、そうなると母の名前を間違えるようなことが起こりえるのだろうかとの疑問が残る。

4.曹渓院中村一忠の養母ではないか。

中村一忠は11歳の若さで見ず知らずの伯耆国へ入国することとなるが既に父も母も他界しており、頼れたのは家老の横田村詮のみであったことが考えられる。横田村詮の妻は中村一氏の妹であり、この横田村詮の妻こそが中村一忠の養母となった曹渓院という可能性が考えられる。

他にも養母となりえる人物は居たと思われるが、中村一忠が直々に菩提寺を建てる、或いは浄明院が開基を許したとあれば相当位の高い人物と推測できることから該当する人物が絞られそうである。

 

以上の諸説をまとめると總泉寺の中村一忠の御母堂、曹渓院とは「中村一忠の養母であり、中村一氏の妹で執政家老横田村詮の妻」とする説も考えられそうであるがこの説を裏付けるまでの資料は見つかっていない。

 

中村家断絶の後、伯耆国へ入った加藤貞泰の父、加藤光泰の戒名が「剛園宗勝曹渓院」とあり、曹渓院の文字が見える。

加藤貞泰米子城の城主を務めた頃は篤く保護を受け、加藤光泰の命日には読経供養を務めていたことから曹渓院とは架空の女性である可能性も。

【 遠 景 】

正面からの遠望

本堂へ続く参道両脇には池。堀の名残?

本道

【 概 要 】

名 称大龍山 總泉寺(だいりゅうざん そうせんじ)

所在地:鳥取県米子市愛宕町(大工町)

建立年:1607年(慶長12年)

建立主中村一忠浄明院

遺 構:空堀、郭跡

現 状:大龍山 總泉寺

種 類:寺院

【参考文献】

伯耆志、伯耆民談記、伯耆民諺記、總泉寺縁起(昭和8年8月)、総泉寺延命地蔵記、尾高の里【二】(昭和52年8月20日:野口徳正 著)、わが郷土 米子とその周辺の郷土誌(昭和58年1月)、伯耆三十三札所<鳥取県 伯耆国>(平成8年10月初版、平成13年9月第2版:立花書院)、米子市史<全>(昭和48年10月:米子市役所)

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

鎌倉時代

室町時代

不明

摂津国や播磨国などを支配した赤松範資が父、赤松則村の菩提のため、美作国真庭郡に創立した青蓮寺の三代禅室珍目の開山と伝わる。

明応5年

1496年

赤松政則が急死すると分家で婿養子の赤松義村が当主を継ぐが、赤松家の権勢が陰り始めると伽藍、荘園共に官家へ皈したと云われる。(總泉寺縁起書には赤松家滅亡と記される)

永禄年間

不明

伯耆国尾高城の城主、杉原盛重の皈依を得て八世棟室和尚が観音寺(現在の戸上集落)に移ったと云われる。

慶長8年

1603年

米子城騒動で中村方からの救援要請に応じた出雲国富田城の城主、堀尾吉晴からの援軍として堀尾信濃守忠氏堀尾山城守忠晴がこの地に布陣し、飯山砦に籠もった横田方と戦ったと云われる。(伯耆民談記)

慶長12年

1607年

伯耆国米子城の城主、中村一忠が夫人の追福のため伽藍塔を建立し現在地に總泉寺が建立されたと云われる。(總泉寺縁起)

総泉寺の古位牌には開基を浄明院としている。(総泉寺延命地蔵記)

 

建立に際しては諸説あるが、中村一忠の父である中村一氏の御霊を慰霊するために建立されたとも云われる。

また、伯耆志には米子へ移転させた寺の一つとして記述が見える。

 

寺名は母の戒名「曹渓院殿清心總泉大禅定尼」から總泉寺、山号は父、中村一氏の戒名「大龍院殿一源心公禅門」から大龍山と名付けられたとされる。(總泉寺案内板より)

寛文2年

1662年

伯耆国6郡の全曹洞宗寺院をまとめる「僧録所」に定められ、大本山總持寺の輪番住職も務めていたとされる。

天保13年

1842年

三十一世直翁見成和尚によって山門の石垣の整備が行われた。(縁起書には天保年間と記述される)

平成21年

2009年

中村一氏の400回忌を機に、諸菩提をあわせた供養塔が再建された。

【 写 真 】(訪問日:2013/09/06、10/28)

山門脇の案内板

山門からの眺め

山門からの眺め

山門からの眺め

郭跡と考えられる現駐車場

郭跡と考えられる現駐車場

山門

山門前の石垣は空堀の名残と伝える

空堀の名残

空堀の名残と伝える

2009年に立て替えられた供養塔の宝篋印塔

昔の墓碑や五輪塔、宝篋印塔

昔の墓碑や五輪塔、宝篋印塔

昔の墓石

昔の墓石

堀跡の池

池に住む鴨