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古曳秀信(こびき-ひでのぶ)

【氏】不明【姓】不明【名】古曳【通称】不明【諱】秀信

【号】盤谷(ばんこく)、鋤竹斎(じょちくさい)

【所属】不明

【官位】不明

【出身】不明

【生年】1804年(文化元年)、1807年(文化4年)

【没年】1885年(明治18年)

古曳維秀の三男。兄、古曳秀之が病死したため古曳家十一代目を継いでいる。

画家で盤谷、鋤竹斎と号し、名を愿(つつし)、字を正民(まさたみ)とも称した。

 

1809年(文化6年)、6歳の時に余子村の医師、武良与治右衛門至英の養嗣子となっている。

成人するまでは実家に住まい、父が医業の傍らに開いた儒学塾で学問を学び、武術にも励んでいる。

幼い頃から丹青(画道)には興味を持っていたとされる。

 

1819年(文政2年)、16歳の時に竹内村の足立宗右衛門の娘、繁野と結婚している。

 

1826年(文政9年)、23歳の時に伊勢参宮、京都へ、1829年(文政12年)の時に九州(長崎・肥後・薩摩)を訪れ、1年半後に帰郷とある。

 

1837年(天保8年)、34歳の時に太刀を差し出郷とある。

憂国の情と勤王の志、画道の熟達を望んだとしているが、実際は武良家、古曳家への配慮のための出郷と云われる。

 

1839年(天保10年)に次男の熊之助が生まれると長男の大吉古曳秀之の嗣子に求められたが、大吉は幼かったため11代目は自身が継ぐこととなった。

大吉は1827年(文政10年)誕生。出郷後の誕生になっていることから真偽は不明。

 

出郷後、京都で岡田半江に約3年、名古屋で山本梅逸に約4年師事し修行を積んでいる。

その後は江戸に移り志士・名士と交流を持ったが、幕吏の探索から逃れるため信州へと隠れた。

 

1846年(弘化3年)、信濃国で佐久間象山と国事を談じ、信州の大地震の後は江戸の両国に移り、志士・墨客と交流を深めた。

幕吏の探索から逃れるため上総、下総、上野、下野を経て再び信州へ移り、松本城下に居を構え画塾を開き、降旗寿恵子と結婚している。

 

1864年(元治元年)、上洛の道中に佐久間象山が尋ねてきた時は一泊させ、その際「京都は攘夷派の巣窟で開国を唱えるのは危険」と門人の飯沼泰之助を護衛に付けたが、襲撃現場には居合わせず佐久間象山は暗殺されている。

 

倒幕運動に加担していたことから幕吏からは常に手配され、度々襲撃を受けたためか体には多数の刀痕があったとしている。

 

1885年(明治18年)死去、79歳。

生年には1804年(文化元年)と1807年(文化4年)の2説がある。

また、年号と行動については一部不整合な点が見受けられる。