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福頼左衛門尉元秀(ふくより-さえもんのじょう-もとひで)

【氏】村上【姓】不明【名】福頼【通称】左衛門尉【諱】元秀

【所属】山名氏⇒尼子氏⇒吉川氏

【別名】村上左衛門督元秀

【官位】左衛門尉・左衛門督・治部大輔・民部大輔・次郎大輔・藤兵衛尉

【出身】汗入郡?

【生年】不明

【没年】1585年7月(天正13年)

島根県出雲市佐田町大呂(旧:福頼)を発祥とする福頼氏の一族と云われる。

毛利家発給の感状や書状では「村上左衛門督元秀」と記述される。

 

1558年(永禄元年)、毛利方の武将、吉川元春小笠原長雄の籠もる石見国温湯城を攻撃した戦では尼子氏から派遣された援軍の武将の一人として登場する。

この戦で尼子方の援軍は江ノ川を渡ることができず早々に引き上げてしまい救援に失敗、石見国温湯城に拠った小笠原長雄は翌年に毛利氏へ降伏している。

 

大永年間、伯耆民談記に記される大永の五月崩れでは一連の尼子氏の西伯耆侵攻に対し、三輪神社を通過し東進しようとする尼子経久の軍の前に立ち塞がったと記される。(三輪神社沿革誌)

 

福頼氏が毛利氏へと降伏した時期は不明だが、出雲国月山富田城落城後の尼子氏滅亡前後と考えられ、伯耆国から尼子氏が駆逐された後の南条氏退去後は毛利氏より伯耆旗頭に任じられたとある。

 

1571年(元亀2年)7月、米子・尾高の両城下を襲撃した尼子残党との戦いでは、夜陰に紛れて米子城下(飯山城下の集落)を襲撃した尼子残党の焼討を阻止するため、手勢200騎余りを率いて出陣するが敵わず城内へと退却している。

米子城下での戦では羽倉元陰に討たれる記述が見られるが、討たれたとするのは伯耆国米子城飯山城)の城番、福原元秀であったと考えられる。

福原元秀の戦死後、伯耆国戸上城から米子城飯山城)の城番へ任命と考えられる。

 

1573年(天正元年)には「吉川元長に従い軍役」とあり、以降は吉川氏の部将として活躍の記述が残る。

 

元亀年間の山中幸盛のよる尼子再興戦においては国信神社縁起に”毛利氏麾下福頼左衛門尉”が伯耆国末吉城にて尼子残党を率いた山中幸盛と戦い敗れたとあり、末吉城の城主を任された時期があった可能性も考えられるが、縁起ではこの出来事が天正年間中期~末期の出来事とされており尼子再興戦の起こった時期と年号が合致しない。

年号が正しいのであれば伯耆国での最後の戦い、伯耆国香原山城での戦いを指すことも考えられる。

末吉城での出来事と考えると単純な年号の記述ミスなのか、後世に創作された物語なのか信憑性に欠ける部分が残る。

地理的な部分のみだけで推察すると伯耆国富長城の城主とされる福頼左右衛門尉、毛利麾下とするのであれば本人(村上左衛門督元秀)や福頼藤兵衛を指す可能性も考えられる。

 

1581年(天正9年)まで米子城飯山城)の城番を務めたとされるが、

・伯耆民談記では1569年(永禄12年)まで。

・尼子残党の将、羽倉元陰に討たれたとする記述では1571年(元亀2年)まで。

・吉川元春に従い尼子氏の播磨国上月城攻略のため軍役、留守となる米子城飯山城)の城番に吉川元春配下(杉原盛重配下とも)、古曳吉種が任じられたとする説では1577年(天正5年)まで。

など、米子城飯山城)の城番在任期間については諸説見える。

戸上城では「福頼次郎民部大輔元秀」として城主であったことが記されている。

 

吉川元長が病没する直前、吉川家の家督を相続する吉川広家に忠誠を誓う「起請文」には出雲の国人として署名し名を連ねている。

 

1583年(天正11年)、伯耆国羽衣石城の城主、南条元続が伯耆国八橋城回復戦の一手として西伯耆へ侵入してくるが横道春重末次元康井上春佳らと共に迎え撃ち、退けている。

 

1585年(天正13年)7月、西伯耆に駐屯していた毛利方の軍勢が四国征伐のため手薄になった隙を狙い、南条元続を支援した行松氏が手勢千騎余りを率いて西伯耆へ侵入。

これを香原山城で迎え撃つが、付近の牢人衆が南条方に与したことで次第に戦況は不利となり、兵糧も尽き進退に窮したところで香原山城に火をかけ放棄、伯耆国尾高城まで退く事を余儀なくされた。

この撤退中の追撃戦では福頼塚まで遁れたところを射殺され戦死したと云われる。

※伯耆国北尾城(高尾城)での出来事とする説もあり、福頼藤兵衛の援軍として登場している。

 

毛利方の敗走の後、直ちに毛利元康を始めとする出雲方面や近隣諸国からの増援が送り込まれ、数日のうちに香原山城は毛利方へ回復したとされ、この戦を以って西伯耆での戦は終結した。

行松氏との香原山城の戦いでは「福頼藤兵衛尉」として記される。

※異説には香原山城の戦いで戦死したのは配下の福頼藤兵衛であり、落ち延びた後に毛利本隊を率いて香原山城を回復したとする説がある。

 

福頼左衛門尉の一族が富長城福頼藤兵衛の一族が伯耆国富繁城の築城に関わったと云われ、伯耆国の各地で登場する福頼左衛門尉(福頼氏)を同一人物とする説もあれば、全てが別人であったとする説が諸説残る。

 

福頼氏は山名氏配下の有力国人(伯州衆)の一族であったが山名氏の勢力が衰退すると尼子氏へ従属、尼子氏の勢力が衰退すると毛利氏へ降った後、吉川氏へ仕えたとされる。

資料によっては山名氏の勢力が衰退すると尼子氏へは降らず、但馬・美作など国外へと退去した後、毛利氏と結びその助力を得て伯耆国から尼子氏を駆逐したとも記述が残る。

 

1764年(明和元年)に記された「伯路紀草稿」では、淀江の天神垣神社に祀られていた石馬を「福頼左衛門尉」の乗馬した愛馬とする伝説が紹介されている他、福頼氏が戦の際に敵兵の馬を多く殺めたことから供養するため大明神として祀った、また、殺めた馬の呪いを恐れ魔除けとした、とする伝説など諸説が残っている。