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HOME > 伯耆古城図録 ~米子市篇~ > 河岡城

◆河岡城

【 概 略 】

始まりは当地の豪族、紀氏の一族(或いは在地土豪の黒正氏)の居城が始まりと考えられている。

現在の御崎神社周辺が城跡と推定されているが相見八幡宮(八幡神社:現在の米子市東八幡)に隣接していたとする説、具足山妙本寺(字上屋敷)に城主の居館(小屋敷)が所在し、その周辺とする説、遺構や立地の状況から石州府の字城河内を河岡城とする説など所在地については諸説云われている。

御崎神社周辺を城跡としたのは近年の話で字名を頼りにしただけで根拠はないともされている。(元米子市教育委員会文化課職員の話)

 

伯耆国尾高城と並び西伯耆の拠点の中でも特に最重要視された城砦で、毛利元就もいずれかが落ちれば西伯耆の維持は危ういとしている。

 

粟屋勘兵衛家文書(萩藩閥閲録)

「只今、泉、河岡一大事候。彼両城不慮候へは伯州一円無曲候条(略)七月廿三日」

 

当城は戦略物資の集積・中継拠点であったことが推定され、水路は日野川を利用し尾高、美保関方面との連絡が良く、陸路も西側は岸本、南側からは日野郡を経由し山陽方面との連絡が取れることから交通の要衝であったことが推測される。

 

伯耆志には1550年(天文19年)8月に日野川の氾濫が起こり、現在の流路(箕蚊屋平野西側)へ変わったとされ、毛利氏と尼子氏が争った頃は佐陀川方面に流れていたとしている。

この流路は当城と伯耆国尾高城を結び水路での物資の輸送を可能とし、当時の毛利軍の部隊展開において重要な糧道であったと考えられる。

当城は兵糧集積基地であったことも記述に見え、尼子方の襲撃により外城の糧秣が焼かれるなど度々攻防戦が行われている。

 

伯耆志では川岡村の村名の由来と城主の河岡山城守についての伝が見える。

 

伯耆志 川岡村の条 陣小屋敷の項

「村の西、田土の字なり。永禄の頃、甲賀山城守久貞と云う人当村に居りしと云へり。此人の陣を居へし跡なり。

馬場村八幡宮、永禄十年、甲賀氏寄進の品あり。彼社伝には河岡と記せり。重綾の説に甲賀川岡音訓相近く本は甲賀なるを川岡と訛りて村名とせしなるべし。川岡を甲賀とは改め記すべからず。後世に用ふべき字面に非ればなり。甲を”かは”と訓ずる例は和名抄に相模国愛甲郡(阿由加波)あり。甲賀は近江国甲賀郡(和名抄)ありて甲賀山あり。今の土山驛の地方と聞たり。因て按ずるに此山城守は彼地より来れり人にや。其故は彼、八幡宮の前に近江松と呼ぶ枯れ木ありて、社殿に進ノ某近江国の苗を栽しとあると、一説には河岡山城守之を栽えたりと言伝ふ。此説是ならば爰に由あり。甲賀と云ふ地名も姓も他に見及ばざればなり。松の仔細等は馬場村下に記す。民談記に南条中務少輔元忠の臣に河岡伊織と伝ふ者が関ヶ原で戦死せし由見へたり。此山城守の族なるにや、然れば当村は其頃開けし村にて此姓を村名とせしなるべし」

 

粟屋勘兵衛家文書では尼子方の武将であった河山氏が、1559年(永禄2年)に人質の死亡を理由に毛利方へ通じている。

河山氏の居城である当城の維持のため、杉原盛重三村家親宮景盛のいずれかを派遣するよう毛利元就より粟屋木工允に命じられ、この頃に山田満重が当城に入り城砦を改修したとされる。

 

粟屋勘兵衛家文書(萩藩閥閲録)

「一、河岡表加勢事、於于今河山雲州ニ置候人質死去候(略)此儀盛重、景盛同心候様、可相調事肝候、不然ハ家親人数河岡近辺マテ被差出、彼城堅固候様被抱候テ給候ヘカシト存候(略)」

 

1563年(永禄6年)、山田満重が城番の頃、吉川元春は忠勤を謝し、同年2月に小早川隆景の武将、末近宗久(一郎右衛門)が派遣され助勢している。(小寺家文書(萩藩閥閲録)、岸本町誌、鳥取県史2中世)

 

小寺家文書(萩藩閥閲録)

「去十二日、就三村帰陣。河岡之城可明退之趣候之処。末近市郎右衛門尉、境孫右衛門尉、令同道、其方懸入踏静候付て彼城堅固候き、其方覚悟無比類候。我等祝着之段更不及言語候。忠義之至候、猶比者可申候。謹言。永禄七年六月十五日 小寺佐渡守殿」

 

毛利元就からも末近宗久境経俊の忠勤を謝する記述が見える。

 

同じ頃、尼子方に糧秣を焼かれた後の対応について早急な補給を行う旨が記されている。

 

山田家文書(萩藩閥閲録)

小早川隆景、吉川元春、毛利元就連署書状

「於、某許外城兵糧焼候由候間、従杵築明日三百俵、至淀江着上候。村上太左衛門尉所へ早々人を被出(略)但若此舟依順風遅候てはと存。銀子十枚持せ進之候(略)永禄七年七月廿四日 末近一郎右衛門殿 山田民部丞殿」

淀江港へ300俵の米を送ることと併せて風の向きで舟に遅れが出ることも想定し現地で米を買い占めるための銀子も手配している旨が記されている。

 

1563年(永禄6年)7月3日の尼子方による河岡城襲撃では毛利方の武将、一条市介が銃撃によって負傷したとする記述から、伯耆国内の戦いで初めて鉄砲が用いられたと推定されている。

 

現在地は圃場整備によって城跡の遺構が全て消失したとされるが、1843年(天保14年)の「会見郡川岡村田畑地続全図」には現在の御崎神社周辺で城跡を示す痕跡は見つけられない。

【 遠 景 】

御崎神社(南側から)

御崎神社(南側遠景)

御崎神社(北側から)

御崎神社(北側遠景)

【 概 要 】

名 称河岡城(かわおかじょう)

別 名:川岡城(かわおかじょう)、陣小屋敷(じんこやしき)、河岡陣小屋(かわおかじんごや)

所在地:鳥取県米子市河岡

築城年:不明

築城主黒正氏紀氏

城 主:(紀氏・河岡氏)紀朝臣久貞(尼子氏)紀朝臣久貞河山氏(毛利氏)河山氏河岡山城守久貞山田満重片山平左衛門一条市介小寺元武(小早川氏)末近宗久(吉川氏)境経俊

形 態:平城

遺 構:無し(圃場整備によって消滅)

現 状:御崎神社、田圃

種 類:史跡指定なし

【参考文献】

・伯耆志

・萩藩閥閲録(山田家文書、粟屋勘兵衛家文書、小寺家文書、三沢家文書)

・平佐就之書状(宮元文書 :東京大学史料編纂所影写本)

・会見郡川岡村田畑地続全図(1843年(天保14年))

・岸本町誌(昭和58年3月発行:岸本町誌編さん委員会)

【城娘】

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

不明

不明

不明

不明

大永4年

1524年

永禄5年

1562年

永禄6年

 

1563年

 

永禄7年 1564年
永禄12年 1569年

不明

不明

吉川家の家臣、境経俊が城番に任命され、16世紀中に廃城と伝わる。

【 写 真 】【訪問日:2013/06/29】

御崎神社

御崎神社の鳥居

神社東側の水路

神社前の側溝

神社境内の淵には僅かな土盛

神社南東側の平坦地

神社南東側の平坦地

神社南東側の平坦地

神社南東側の平坦地

境内の様子

境内の様子

境内の様子

祭神についての石碑

境内の様子

境内の様子

境内の様子

神社北西側の田圃

神社西側の田圃