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HOME > 伯耆古城図録 ~米子市・米子市淀江篇~ > 石井城(石井要害)

◆ 石井城(石井要害)

【 概 略 】

出雲国との境界に程近い米子平野西端の独立丘陵上(字要害)に所在する。

 

古くは鎌倉時代頃、在地土豪の居館が始まりと云われるが記録に乏しい。

牧野家古文書では1530年(享禄3年)頃、赤松政則と離縁した紀成盛の娘が伯州へ戻る際に随行した人物に古曳永綱の名が見え、紀氏譜記では古曳永綱が居住したとされる。

 

伯耆国七尾城、伯耆国奥谷城、伯耆国石井屋敷などの周辺諸城と連携し出雲国や法勝寺方面から伯耆国尾高城へと続く街道往来の監視を担ったことは所在する立地からも推定され郷土史料や口伝にも伝えられる。

 

城砦が所在したとされる丘陵は1964年(昭和44年)の宅地造成により、北西の主郭と推測される頂部の郭を始め、2段目は八幡神社が鎮座する南東部の出丸と推定される丘陵(字要害)の一部を残し城域内のほぼすべてが消滅し、残存部も改変を受け原型をほぼ留めていない。

現在の標高29.4m(比高20m)は改変を受けた後の高さであり、宅地造成以前には戦国期の郭拡張(八幡神社直下の南腰郭など)、廃城後(戦国末期~江戸時代始め)の農地拡張に空堀・水濠の埋立のため主郭など上段部から切り崩され標高も徐々に下がっていったと考えられる。

そのため本来の高さは七尾城と並ぶほどではないにしても、それなりの高さを持った城砦であったと推測される。

石井で城砦に関連のありそうな小字としては「上高城」「下高城」「要害」「陣場ドウドウ」が見え、「市場」の字も見える。

 

石井村名寄帳では「そと堀中田」「内ほり下々田」「ほり開下々田」など堀を水田に転用した字名が見え、東方二段目の所に「昇りの段」、上段東南に「枡形」としている。

 

延宝六歳石井村水帳写(旧成実村史より)では「本丸」「デ丸」「八まん」の地名が見えるとあり、出丸は現在の八幡神社の東側に所在としている。

 

文政郡郷帳(米子市談 第三巻より)では「八幡宮あり。石井山妙喜寺あり。村より東北にあって木引因幡守古城跡あり」とある。

木引因幡守については古曳氏の一族なのか架空の人物なのかは不明。

 

旧成実村史では当要害の見張り砦として奥谷城(外構山・船上山とも)、字ドウドウの南側の山、小学校南側の山の3つを挙げている。

 

伯耆民談記では石井城之事の条に記述が見える。

「宗像庄石井村にあり。古城主片山小四郎領地なり」

 

伯耆民談記では城主の領有した城としての記述を優先している。

 

伯耆志では石井村の条、要害の件に記述が見える。

「村の東北田中の山なり。八幡の小祠あり。片山小四郎といふ人の城なりと云へり。伝詳かならず」

 

伯耆志の挿絵「捜図」では丘陵頂部から3段に平削された郭が連なる連郭式城砦の名残が描かれている。

絵図の郭には建物の図示が見えず、伯耆志の成立時には記述の通り、既に城砦としての機能は失われ小祠や田畑へ改変されていたことが伺える。

 

石井村田畑地続字限絵図(十字要害)(明治2年)からは北西側の最も高い郭が主郭と推測でき、二段目の北側・東側に帯郭状腰郭と南側に切岸(或いは堀切)を隔てて現在の八幡神社が鎮座する出丸が配され主郭の防御を担ったと考えられる。

三段目の西側・北側・東側を囲むように帯郭状腰郭と防柵を配し、南側には特に高低差を持った切岸で防御を高めた構造が伺える。

また、周囲を囲む水田はかつての水掘を埋め立てて造成された水濠の名残とされ、加茂川から水を引き込み水濠を周囲に張り巡らせた水濠要塞であったことが推測できる。

 

2018年(平成30年)、石井地区単県急傾斜地崩壊対策事業により八幡神社の鎮座する丘陵西側~南側と北西側の急傾斜地が削られることとなり、さらに遺構が消滅することとなる。

 

当城砦はいくつかの時代で改修が繰り返されたことが発掘調査から判っており、鎌倉時代から戦国時代にかけて土坑の埋立や郭の造成・拡張(戦に特化した改修)、戦国時代から江戸時代にかけて田畑、祠への郭の拡張・転用(戦ではなく生産性向上のための改修)が行われ、時代によって姿を変えていったことが推測されている。

 

城主については片山小四郎の居城と記述がみえる。

片山小四郎は尼子方の武将としての記述が目立つが、毛利氏に所属した片山平左衛門を同一人物とする説や、手間周辺への焼き討ちに関する記述では攻撃対象が正反対になるなど一部記述に混同が見られる。

鎌倉時代の頃から片山氏の一族がこの地に地盤を持っていたのかは不明であるものの、伯耆山名氏が伯耆国を支配した頃、在地有力国人衆(伯州衆)の中に片山氏の名が見えることから室町時代~戦国時代にかけては伯耆山名氏の下で当地を治め、大永年間に尼子氏が伯耆国で台頭を始める大永の五月崩れ前後に尼子氏へ与したことが考えられる。

 

西伯耆の支配が尼子氏から毛利氏に移ると片山氏の名は見えなくなり、1588年(天正16年)に古曳吉種が城番に置かれている。

 

古曳吉種については地元郷土史や個人所有の文書では城砦建築の名人とあり、当城を水濠要塞として設計し築き上げた人物として伝わる。

この知識と経験を同時期に領有した伯耆国戸上城の法勝寺川に面した登り土塁へ転用、後に伯耆国米子城の中海に面した登り石垣の基礎として取り入れ、中海や加茂川の水濠を用いて海城としての機能を高めた設計を行ったことを推測したい。

【 遠 景 】

南からの遠望(2013年)

南からの遠望(2018年)

南の加茂川

南には七尾城

【 見どころ 】

土壁遺構(土橋状遺構:出土)

写真右側に見える長方形の遺構。形状は土橋状にも見える遺構だが南側面は緩やか、北側面は垂直となっている。

現状では所在する位置に土橋を設置する必要性は薄く、土橋より西側に備える土塁、或いは土壁とした方が考え易いため早急に「土橋」と決め付けることには異論もある。

北側へ更に空堀が伸びていれば土塁や虎口の可能性も考えられるが、以北は参道となり遺構も消滅しているため何を目的に設置されたのか真相は今のところ不明。

空堀(八幡神社の郭直下の西~南側の腰郭にかけ埋没:出土)

写真中央の窪み部分が空堀とされ、八幡神社の鎮座する郭の防衛のための横堀と推定。南東には尾根から攻める敵勢の進軍を阻む障壁を設置したとする溝跡が発掘されているが、空堀は浅く障壁が機能するのか不明。石井村田畑地続字限絵図を見る限り、南側はかなりの高低差を持った切岸のため空堀自体の必要性に疑問が残る。

【 概 要 】

名 称石井城(いしいじょう)

別 名:石井要害(いしいようがい)、石井砦(いしいとりで)

所在地:鳥取県米子市石井字要害

築城年:不明(鎌倉時代の土豪の居館が始まりと伝わる)

廃城年:不明

築城主:不明

城 主:(伯耆山名氏)片山高綱(尼子氏)古曳永綱片山高綱(毛利氏)片山高綱?、古引因幡守古曳吉種

形 態:連郭式平山城

遺 構:郭跡、空堀(横堀)、切岸、土塁?、土坑?、土壁?、水濠(田圃へ改変)、井戸跡(主郭に所在したと伝わる)

現 状:八幡神社、山林、宅地

種 類:史跡指定なし

【参考文献】

・伯耆志・伯耆志捜図・伯耆民談記・萩藩閥閲録・陰徳太平記

・文政郡郷帳(文政年間:米子市談 第三巻より)

・延宝六歳石井村水帳写(延宝6年:旧成実村史より)

・牧野家古文書・石井村名寄帳(元禄2年)

・石井村田畑地続字限絵図 字要害図(明治2年)

・米子の歴史(昭和42年8月:伯耆文化研究会)

・米子市談 第三巻(昭和48年7月~昭和50年5月)

・旧成実村史・成実の歴史(昭和61年3月25日)

【城娘】

 

【 縄張図 】

石井要害略測図

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 要害図 】

石井村田畑地続字限絵図・十字要害

米子市教育委員会より提供

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

鎌倉時代

不明

享禄3年頃

1530年頃

不明

不明

大永年間頃

16世紀初頃

永禄6年

永禄7年

1563年

1564年

天正16年

1588年

天正19年

1591年

吉川広家古曳吉種に湊山への築城(伯耆国米子城)を命じる。

古曳吉種は水濠要塞であった当砦と、この時城番であった伯耆国戸上城を参考に水堀の配置など設計したと伝わる。(成実の歴史ほか)

【 写 真 】(訪問日:2013/05/11、2014/06/21、2018/02/18、04/22、06/02)

参道の旧石鳥居(2013)

新調された参道の石鳥居(2018)

西側の参道

字要害頂上の八幡神社

八幡神社境内(西側郭跡)

参道から八幡神社境内の石積み

参道横の石積み

八幡神社境内(北西側郭跡)

八幡神社境内(北側郭跡)

境内北側の切岸

南東側からの遠望(2014)

伐開後の南東側からの遠望(2018)

水濠跡(南側)

南側水濠跡の礎石(田圃の畦?)

水濠跡(西側)

水濠跡(西側)の切岸

八幡神社から西直下の腰郭

西側の参道(伐開後)

八幡神社南側(伐開後)

八幡神社南側と腰郭(伐開後)

八幡神社南側(伐開後)

八幡神社南東側の突出部(伐開後)

八幡神社の北側の腰郭

八幡神社の北側の腰郭

八幡神社の北側の腰郭(試掘跡)

八幡神社の北側の腰郭(試掘跡)

八幡神社の北側の腰郭(試掘跡)

八幡神社の北側の腰郭

八幡神社の北側の腰郭

八幡神社の北側の腰郭

北西の団地側に遊歩道(建設中)

八幡神社の北西側の腰郭

八幡神社から一段下の北西側

八幡神社の北側の腰郭

八幡神社の北側の腰郭

八幡神社の北側の腰郭

八幡神社の北側の腰郭

北側(公園)からの遠望

伐開後の八幡神社境内南側

伐開後の八幡神社境内南側

伐開後の八幡神社境内南側切岸

伐開後の八幡神社境内南側切岸

八幡神社境内南西側切岸と腰郭

南腰郭に埋設していた空堀と遮蔽遺構

南腰郭に埋設していた空堀と遮蔽遺構

南腰郭に埋設していた空堀と遮蔽遺構

南腰郭に埋設していた空堀と遮蔽遺構

土橋状とする遺構(異論あり)

土橋状の形状であるが用途は不明

要害団地の碑