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HOME > 伯耆古城図録 ~米子市篇~ > 飯山城

◆飯山城

 

【 概 略 】

室町時代中頃~1460年代後半頃、出雲国(夜見島、弓ヶ浜方面の海路)を意識した伯耆国側の要衝の地と考えられている。

伯耆国守護、山名教之が飯山の山頂に築城を命じた砦が始まりとされ、中海(深浦)の港や続く水路を見張る海城であったとも云われる。

 

通説では伯耆国米子城の前身とされ、後に現在の国道9号(当時は堀切や浄昌寺といった防御施設があったと考えられる)を挟んだ

西側の湊山(豪円が名付けるまでは飯山)に近世城郭としての伯耆国米子城が築城されると東の出丸として城域に取り込まれたと考えられる。

 

別名に「采女丸」とあり、中村氏の頃は野一色氏の居館と云われる。

 

1603年(慶長8年)、執政家老の横田村詮が謀殺されると横田主馬助を始めとする横田家の遺臣二百余名が立て籠もったとされる。(米子城騒動)

横田勢が立て籠もった場所には諸説あり、遠見櫓直下の内膳丸とする説もあるが中村方の増援に参陣した堀尾氏が陣を構えたのが総泉寺であったことから

加茂川を挟んだ当城(飯山)に立て籠もった説が有力と考えられる。

 

後の古絵図に当城の施設は白抜きで放逐されたことが記されているため、米子城騒動の後に廃城されたと考えられる。

 

資料によっては1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの戦功として中村一忠が伯耆国へと転封されるが、当時の米子には大名の居住が可能な施設どころか

町すら存在しなかったとされ、西伯耆で最も栄えていた伯耆国尾高城を仮の居城として執政家老の横田村詮と共に城郭や城下町を整備した後に

伯耆国米子城へ入ったとする文献が見える。

この説を採れば中村一忠の転封時において飯山に城郭や米子城下に町が存在したことも疑わしくなる。(会見郡米子庄として集落が点在した事は伺える)

【 遠 景 】

米子城主郭(天守台)からの眺め

主郭跡には英霊塔

登城口にある案内板

【 縄張図 】

記載なし

※古絵図に放逐された施設として記述あり

【 概 要 】

名 称飯山城(いいのやまじょう)

別 名:飯山砦(いいのやまとりで)、采女丸(うねめまる)、米子城(よなごじょう)

所在地:鳥取県米子市久米町

築城年:不明(室町時代中頃~1460年代後半とされる)

    ※出雲私史にて文明2年(1470年)に砦の存在を示す記述が初見

廃城年:不明(1603年(慶長8年)以降?)

築城主山名宗幸

城 主:伯耆山名氏…山名之定山名秀之山名之玄

    ※伯耆山名氏が支配する頃、有力国人(伯州衆)の一族も城番を務めたと云われる。

    尼子氏(再興軍)…山名之玄尼子勝久山中幸盛

    毛利氏…福原元秀

    吉川氏…福頼元秀福頼孝興古曳吉種吉川広家

    中村氏…野一色采女

文 献:出雲私史、伯耆志、伯耆民談記、伯耆民諺記、中村記、京極政高感状、

    雲陽軍実紀、米子史談、他多数

形 態:平山城、海城

遺 構:郭、石垣、虎口、土塁?(山頂の平坦地、英霊塔周囲の土塁は砦由来の遺構かは不明)

現 状:山林、公園(英霊塔)

種 類:史跡(市指定文化財:昭和52年指定、国指定文化財:平成18年1月26日指定)

登城難易度⇒★(楽:英霊塔まで)★★★★★(修羅:その他の居館部などは侵入不可)

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

不明

不明

正確な築城年は不明。

1467年(応仁元年)頃、伯耆国守護山名教之の命により家臣の山名宗幸が飯之山に砦を築いた事が始まりとされる。

文明2年

1470年

伯耆山名氏の軍勢が尼子氏領の出雲国へ侵攻を開始したとある。

文明3年

1471年

8月、境松合戦(伯耆山名氏×尼子氏)において伯耆山名氏の軍は尼子清定により敗走し、

1470年(文明2年)から始まった伯耆山名氏による出雲国侵攻は失敗に終わっている。(佐々木家文書 京極政高感状)

この戦で敗れた伯耆山名氏の軍が米子へ入ったとされ(出雲私史)、山名之定が城砦の防衛指揮を采ったと云われる。

大永4年

1524年

尼子経久山名澄之の援助を称し伯耆国への侵攻を開始。

大永の五月崩れと呼ばれる電撃戦で主要な伯耆国諸城は短期間のうちに落城したと伝わる。(伯耆民談記・伯耆民諺記など)

当城も伯耆国諸城が攻略されると同時期に尼子氏の支配下になったとされる。

 

但し、尼子氏はこれより以前から段階的に伯耆国への侵攻・籠絡を進めていたことが判明しているため、

大永の五月崩れに描かれるような武力による電撃戦によって当城が尼子氏の支配下に置かれのか、その時期も不明。

永禄5年

1562年

山陽一帯を平定した毛利氏が尼子氏の支配する出雲国へ侵攻を開始すると伯耆の国人衆は相次いで尼子氏から離反し、

当城も毛利氏に与した伯耆山名氏によって攻略され、毛利氏の下ではあったが伯耆山名氏の支配へと戻っている。

この時の城主に任じられたのが毛利氏と共に当城の攻略に参加した伯耆山名氏の山名秀之であったと云われる。

永禄12年

1569年

城主の山名之玄が毛利氏に反旗を翻し、尼子再興軍を旗揚げした山中幸盛と結び当城を奪取し再び尼子氏の支配となるが、

程なく毛利方の武将、吉川元春に攻められ落城している。

当城は再び毛利氏へと帰属し、城主の山名之玄は謀反の咎を受け自害したとある。

※一部の書物では叛乱を起したのは山名秀之であったと云われる。

元亀2年

1571年

3月中旬、尼子再興軍の武将羽倉元陰率いる五百余名が水路より進入し城下を襲撃、城下の民家へと焼討を行い、

消火作業に気を取られていた城番の福原元秀羽倉元陰によって討ち取られたとある。

 

福原元秀に代わり伯耆国戸上城の城主、福頼元秀が城番に任命されている。

一説にはこの襲撃の前後、吉川元春により城郭の防衛力強化が図られ湊山への築城計画が立案されたとする説が見える。

天正9年

1581年

福頼元秀に代わり杉原盛重の配下で伯耆国戸上城の城主、古曳吉種が城番へと任命されている。

 

古曳吉種への城番任命時期には諸説あり、

福頼元秀が尼子残党掃討のため汗入郡へ軍役した期間に城番として留守を預かる説では1569年(永禄12年)から

福頼元秀吉川元春に従い尼子再興軍の拠る播磨国上月城攻略のため城番を預かった1577年(天正5年)から

とする説がある。

天正19年 1591年

吉川元春の三男、吉川広家古曳吉種に湊山への築城を命じたとあり、築城奉行として祖式九右衛門が任じられている。

12月、吉川広家が米子の城下町を14の区に区切ったと云われている。

※この説は1575年(天正3年)に町が存在した場合と考えられる。

天正20年

(文禄元年)

1592年

吉川広家古曳吉種とともに唐入りのため朝鮮半島へ出征とある。(文禄の役)

この時の城番は不明。古曳吉種は朝鮮にて戦死している。

慶長3年 1598年

11月、豊臣秀吉の死により日本軍は朝鮮半島から撤兵を開始。

吉川広家も出雲国月山富田城へ戻ると出征により中断していた湊山への築城を再開したとある。

築城の再開と同時に米子港(深浦)の整備も行われていたとされる。

慶長5年

1600年

9月、関ヶ原の戦いに於いて毛利輝元が総大将を務めた西軍は東軍に敗れる。

東軍へと内通していた吉川広家は毛利家存続のため奔走し主家改易の危機を乗り切るが毛利家と共に岩国へ転封となる。

吉川広家が伯耆国を去るまでに湊山築城の進捗具合は7割程度、小天守のみ完成していたとされる。

(吉川家文書「戸田幸太夫覚書」)

 

関ヶ原の戦いでの功績により中村一忠が伯耆国領主となる。

慶長6年

1601年

吉川広家が岩国へ出向。伯耆国を去る前、伯耆国七尾城の麓に鎮座する阿陀萱神社へ米子城主として寄進を行っている。

(阿陀萱神社由緒書)

慶長7年

1602年

中村一忠、執政家老の横田村詮と共に湊山へ伯耆国米子城を完成。

当城は出丸として残され中村家の家臣、野一色采女に任された事から「采女丸」とも呼ばれた。

慶長8年

1603年

中村一忠が慶事の場で執政家老、横田村詮を誅殺。

横田村詮の子、横田主馬助を総大将として横田家の遺臣二百余名、横田村詮の客将で柳生一族、

柳生宗章らが当城に立て籠もり中村一忠に対して抵抗(叛乱)したとされる。

中村方の兵力だけでは事態の収拾を図ることができず、救援要請に応じた出雲国月山富田城の城主、

堀尾吉晴親子の援軍が到着すると翌日までに叛乱は鎮圧されている。(横田騒動米子城騒動

※横田方が立て籠もったのは丸山の内膳丸であったとする説もある。

 

後の古絵図には白抜きで放逐された施設として記述が見えることから騒動の後、当城の施設が破却されたと考えられる。

昭和41年

1966年

10月、飯山の山頂に英霊塔が竣工。

工事の際、城に由来する瓦や瓦礫の破片が見つかったと云われる。

【 写 真 】(訪問日:2013/04/29)

登城口には柳生宗章の奮戦を記す案内板

主郭へと続く階段

階段途中には腰郭

腰郭が城跡に関する遺構かは不明

中腹の一部には石積や礎石の残骸も見られる

主郭の英霊塔付近は一段高い

主郭には東屋

主郭の高まり(英霊塔西側)

主郭の高まり(英霊塔東側)

主郭に放置された岩塊