トップページへ
お問い合わせフォーム

HOME > 伯耆古城図録 > 伯耆古城図録 ~日野郡江府町篇~ > 天竺屋敷

◆ 天竺屋敷

【 概 略 】

草創は不詳、伯耆国美女石城の城主、天竺元氏の居館が所在したと云われる。

北を険峻な岩山、東を日野川、南は大谷川が流れる天然の要害とも言える立地に所在している。

 

天竺元氏美女石城に在城した期間は書物によって諸説ある。

伯耆志:1573年(天正元年)~1582年(天正10年)※佐川村の条 小祠の項

鳥取県神社誌:1573年(天正元年)~1585年(天正13年)※佐川神社の項

 

現地の案内板では屋敷跡についての解説が見える。

「数段の石垣でかこまれた棚田があり、石垣の中央には石段が掘り込まれている。伝承ではそこが門跡とされている。ここは天竺屋敷といわれ(略)」

 

江府町史(昭和50年発行)では当屋敷の位置を美女石城として写真を併せて掲載していたが、新修江府町史(平成20年発行)では記述が見えなくなっている。案内板でも天竺氏の屋敷跡であり、美女石城ではないとしている。

 

屋敷跡に関する遺構は畑地へと改変され姿を消し、石垣の多くが解体され田畑の畦道の礎石などに再利用されたと云われる。

美女石の所在する岩山の山麓にも石垣と郭跡が存在するが、畑地の境界或いは美女石を信仰するための村社などがあったとしている。

かつて美女石は巨岩信仰の対象であり、近くまで参道が通っており山中には祠の跡も残る。

 

天竺元氏については書物によって漢字表記の違いが見受けられるが、在城期間などから同一人物と考えられる。

「天竺三郎四郎元氏(江府町史など)」「天竺三郎二郎元氏(伯耆志)」「天竺三郎治郎元氏(鳥取県神社誌)」 「天竺四郎三郎元氏(日野郡史)」

 

ただし、「天竺元氏が備中国軽尾城へ戻った年代に諸説あること、上記の通り名前の表記に違いがあることなどから、美女石城の城主であった天竺元氏と佐川神社を造営した天竺元氏が(世襲などで同名を称した)別人であった可能性も。

【 遠 景 】

佐川から天竺屋敷

大谷川を挟んだ南側からの遠望

石垣の名残

現地の案内板

【 見どころ 】

美女石

かつて巨岩信仰を受けた美女石と云われる巨岩。

本来は2つの大岩があり、その形が優雅な女性の髪形である「大垂髪(おすべらかし)」に似ているから「美女石」と名付けられたと伝わります。

平成の頃、地震によって岩の1つが落下してしまい、現在は片方の岩が1つだけ残っています。

【 概 要 】

名 称美女石城(びじょいしじょう・びじょしじょう・びじょぅしじょう)

所在地:鳥取県日野郡江府町久連

築城年:不明

廃城年:不明

築城主:不明

城 主:(毛利氏)天竺元氏

文 献

形 態:丘城

遺 構:郭跡、切岸、川掘、石垣、土塁、虎口

現 状:畑地、山林

種 類:史跡指定なし

【参考文献】

・伯耆志・鳥取縣神社誌

・日野郡史 前篇(昭和47年4月発行:日野郡自治協会)

・江府町史(昭和50年12月発行:江府町史編さん委員会)

・新修江府町史(平成20年6月発行:江府町史編纂委員会)

・江府町の文化財探訪[第1集](平成元年3月発行:江府町文化財保護審議会)

・新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ(平成24年6月発行:鳥取県神社誌編纂委員会)

【城娘】

 

【 縄張図 】

美女石城縄張図(天竺屋敷含)

江府町の文化財探訪[第1集]

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

不明

不明

天正元年

1573年

天正10年

1582年

美女石城の城主、天竺元氏軽尾城へ転移したとされる。(伯耆志)

天正13年

1585年

美女石城の城主、天竺元氏が佐川神社を造営とある。(鳥取縣神社誌、新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ)

【 写 真 】(訪問日:2015/06/28) 

天竺屋敷(南から)

南側の帯郭

北側の帯郭

東側の帯郭

東側の帯郭には礎石も

東側の帯郭の五輪塔

南側の帯郭には堀跡?

南側帯郭端には屋敷と関連しそうな形状

天竺屋敷(北から)

西側の切岸の上は昔、畑だったとのこと

屋敷跡北端の先には2段の郭跡

西側の畑への入口

西側山中には土橋

南西の山中には石垣

南西の山中の石垣と帯郭

美女石(天竺屋敷跡から)

美女石の直ぐ下にある山中の祠跡

南西の山中の石垣の上には郭跡

天竺屋敷から美女石城