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HOME > 伯耆古城図録 ~日野郡篇~ > 不動ヶ嶽城 > 同好会活動日誌

◆不動ヶ嶽城

 

【 概 略 】

字名「丸山」の独立丘陵に所在したと考えられている。

県道210号線を南に向かうと東側に岩壁の見える場所があり、そちらを不動ヶ嶽城(不動ヶ嶽古戦場)とする説もある。

縄張を見る限り、小規模な砦か西麓に所在した不動ヶ嶽村の村城の可能性も考えられる。

 

1524年(大永4年)、尼子氏の伯耆国侵攻(大永の五月崩れ)により落城、以降は尼子氏の領有になったと云われる。(陰徳太平記)

 

1564年(永禄7年)、尼子方の福山肥後守の侵攻に呼応した一揆衆、四郎太夫らが西麓の不動ヶ嶽村と共に占拠した可能性が考えられる。

 

伯耆志では中菅村の条、城跡の件に以下の記述が見える。

「不動ヶ嶽と呼ぶ村の麓に貝原と云う地あり。その地より(缺字)に岩山あり。五丈許の滝あり。響雷の如し。この(缺字)に一小祠あり。(略)

 不動寺の辻堂あり。村より東二丁許、今畑となれり。この地十丁許上れば岩壁敷十丈の峰あり。これを不動ヶ岳といふ。

 この岳の頂に方五丈許の岩窟あり。其の中平にして莚五六枚許を敷くべし。其の所に不動明王の木像を安す。

 木像丈三尺許、此木像元不動寺にあり」

 

伯耆民談記では陰徳太平記から転載として以下の記述が見える。

「(略)此処(如来堂)より十町程も行けば岩壁険峻なる数十丈もあるべき高々たる嶽あり。是を不動ヶ嶽と云ふ。

 古戦書に見える不動ヶ嶽も此地の事也」

 

伯耆志、伯耆民談記の記述を見る限りでは当城より不動ヶ嶽古戦場を指すと推測ができる。

大永の五月崩れにより伯耆国人が美作方面へ落ち延びる際、不動ヶ嶽の山中で行われた追討戦の事を指すと考えられる。

 

陰徳太平記(巻第三十七)の「伯耆国日野之不動ヶ嵩夜討事」では尼子方の福山肥後守を討つ為、三村修理亮家親らの進軍に”不動ヶ嶽を下って”

という記述が加えられていることから福山肥後守は会見郡方面から侵攻したと考えられ、この時は不動ヶ嶽古戦場で戦闘は行われなかった可能性がある。

【 遠 景 】

如来堂(北西側)からの遠景

中菅屋敷(南東側)からの遠望

南側からの遠望

【 縄張図 】

不動ヶ嶽城(字丸山)略測図

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 概 要 】

名 称不動ヶ嶽城(ふどうがたけじょう)

別 名:不動ヶ岳城(ふどうがたけじょう)

所在地:鳥取県日野郡日野町中菅字丸山

築城年:不明

廃城年:不明

築城主:不明

城 主:尼子氏…福山肥後守

文 献:陰徳太平記、伯耆志、伯耆民談記、日野郡史(昭和47年4月 日野郡自治協会)

形 態:丘城

遺 構:郭跡、堀切、虎口

現 状:山林、送電線鉄塔

種 類:史跡指定なし

登城難易度⇒★★★☆(やや難しい)

【 地 図 】 日野郡内の城跡

【 年 表 】

年号 西暦 出来事
永禄7年

1564年

6月7日、尼子方の福山肥後守尼子義久から預かった500騎で毛利方の香川左衛門尉光景が布陣する如来堂へ向け進軍。

同日夜中~翌日未明頃、西麓の不動ヶ嶽村と併せて尼子方が占拠したと考えられる。

【 写 真 】(訪問日:2016/04/02) 

南麓には清水田荒神の祠

主郭(送電線鉄塔)への作業道

山中には鉄塔工事用の林道がある

北西から作業道を進む

土橋状の作業道

作業道を進むと主郭北端へ

主郭北端には鉄塔

主郭の様子

主郭東下に腰郭?

南側の郭跡(麓から)

南側の郭跡(麓から)

南側郭跡の様子

南側郭跡の様子

南側郭跡の様子

主郭と南側郭跡を隔てる堀切

主郭と南側郭跡を隔てる堀切(麓から)

主郭と南側郭跡を隔てる堀切と主郭腰郭(右側)

【同好会活動日誌】

今回は”不動ヶ嶽城”と推測される一つ、字名「丸山」にある郭跡。

 

陰徳太平記の記述からは尼子方の福山肥後守の侵攻に呼応した一揆衆、四郎太夫らが西麓の不動ヶ嶽村と共に

占拠した可能性が考えられるわね。

 

陰徳太平記(巻第三十七)「伯耆国日野之不動ヶ嵩夜討事」で福山肥後守らは如来堂近くの集落に陣を張っていたようなので、

三村家親福山肥後守を攻める時に”不動ヶ嶽を下って”と記述があり、中菅屋敷から北西へ如来堂を目指すと当城があるので

恐らくはその時の戦で主戦場になったかも知れないわね。

 

直接的な記述が無いけど、大永の五月崩れで落とされた方の城跡は不動ヶ嶽古戦場の方とも考えられるわ。

不動ヶ嶽城はこの企画始まって最初に調べた城だけど、昔は全くわからなかった情報も少しずつだけど集まってきたね!

 

もっと情報が集まれば不動ヶ嶽城の場所の特定ができるかな?